ラジオ体操制定90周年記念「フォト・エッセイ等コンクール」審査結果

昨年秋に募集しましたラジオ体操制定90周年記念「フォト・エッセイ等コンクール」に対し、全国各地から73通もご応募をいただきました。心よりお礼申し上げます。

どの作品もラジオ体操との出会いやラジオ体操を通した人と人との触れ合いなどが感動的に綴られた作品ばかりで、審査も難航しましたが、1次及び2次審査による厳正な審査の結果、以下の作品が選ばれました。おめでとうございます。

選ばれた皆さまには、賞状及び副賞(記念品)を別途お送りいたしますとともに、ご応募いただいた皆さま全員に記念参加賞をお送りいたします。

なお、選ばれた作品は、当連盟機関紙・連盟HPに掲載いたします。

【全国ラジオ体操連盟会長賞】(1点)
【全国ラジオ体操連盟理事長賞】(2点)
【優秀賞】(3点)
【佳作】(4点)

会長賞 「曲がってたって一緒がいい」(フォト・エッセイ)

桑野 真理子 様(京都府)

 おじいちゃんのラジオ体操は膝がものすごく曲がっていて、腕だってまっすぐに伸びないから、なんだか全体的によくわからない動きになる。毎朝六時三〇分になると、おじいちゃんはラジオをつけて音楽と号令に合わせて、そのよくわからない動きの体操をする。第一の時もあれば第二の時もあるが、おじいちゃんは第一の二番目「腕を振って足を曲げ伸ばす運動」というのが一番得意だ。腕を内側に振る瞬間、きっちりと曲げられた足と緩やかな曲線を描く腕によって、自然とポーズが決まるのだ。それ以外の動きは、狭い可動域ながら懸命に動かす様子が、まるで二足歩行ロボットのようでなかなか可愛らしい。

 おじいちゃんは昭和のはじめに生まれ、戦争の中を生き抜き、その後、就職した会社で七五歳まで働いた。たくさんの苦労をしたのだろうけどそんな話は一切口にせず、自分の人生での一番の幸運は、六〇年間連れ添った妻逸子に出会ったことだと恥じらいもせずに言ってのける。そしておじいちゃんはとってもダンディな笑顔をおばあちゃんに向けるのだ。そんな時、おばあちゃんは幸せ者だな、と私はしみじみ思う。

 二人とも膝も腕も曲がってしまって体操だって全然ちゃんとできていないけれど、二人揃って毎朝並んで体操をして、時々おばあちゃんが寝坊してもおじいちゃんは怒ったりしないで、何でもない毎日を繰り返している。とんでもなく平凡で、とんでもなく平和で、変わらない毎朝をラジオ体操とともに。

 ラジオ体操は今、九〇周年を迎えたらしい。もうすぐ九〇歳になるおじいちゃんとおばあちゃん。変わらない毎日と相変わらずの体操をして、元気に九〇歳を迎えてほしいと心から願っている。

理事長賞 「あたらしい朝」

土肥 和子 様(北海道)

 聞き覚えのあるメロディーが流れてきた。

 明るいイントロ。こんな時でもラジオ体操って放送するのか。雑然とした部屋でそんな事をぼんやりと考えていた。

 「テレビは押さえたけど、食器棚は無理だったよ。」こわごわと二階から降りてきた私に居間でうたた寝していたらしい夫が言った。

 携帯のライトを照らすと台所の床には一面に割れた食器、和室の仏壇は倒れ、遺影や賞状額のガラスが散乱していた。

 九月六日の夜半、激しい揺れに何もできず、ただ布団の中で身を固くしていた。北海道胆振東部地震。自分の身に突然起きた出来事に、ただぼうぜんとしていた。

 ラジオを付ける。震源地はこの町らしい。

 とにかく明るくなるまで待とう、と夫と話した。

 空が白んできた頃、吠える犬を散歩に連れ出すと、近所の人達と出会った。誰かと話すと少し落ち着く。安否を気遣うラインやメールに返信するうちに夜が明けた。いい天気。

 昨夜洗ったシーツを外に干していると、地震なんて夢かもと思えたが、やはり家の中はめちゃくちゃで、夫と二人、ラジオを聴きながら片付けを進める。それまでずっと地震のニュースばかりだったラジオから、ラジオ体操の音楽が流れてきた。

 「あたらしい朝がきた、きぼーをの朝が。」ラジオ体操第一が始まった。ピアノに合わせて、凝り固まった体を動かす。学校の体育の授業や夏休みにくらいしか体操してなかったけど、結構覚えているものだ。深く息を吸って、吐いて。手足をのばす。大きく、小さく、ゆったりと、リズミカルに。体が温まり、頭が少しづつすっきりしてきた。今日は大変な一日になるだろう。でも、どうにかこの一日をやり過ごすしかない。そして新しい朝を待つしかないのか。第二体操を終える頃、ふとそんな事を考えていた。

理事長賞 「病室でのテレビ体操 みんなの体操」

原田 宏子 様(神奈川県)

 私は三十歳の時、第一回目の癌となり、手術をしました。その後毎年の検査は欠かした事なく、三十八年が過ぎました。

 原宿にある病院でしたので、帰りには、バレンタインのチョコを買って帰りましょうーと、二月十四日に病院に行きました。座るや否や、触診で「ガンです。手術します。三十数年振りの再発とは珍しいですよ‼」と。同じ茶色の固まりなのに、ガンとチョコでは大違い⁉泣きたい心境でした。

 手術の翌日は、まだ管はついていましたが毎朝テレビ体操をしていましたので、いつもの時間に、ベッドの上で、動かせる範囲での体操をしました。

 翌朝からは起きれるようになりましたので立って体操をしましたら、同室の人たちも、鼻や口にチューブをぶら下げて、一緒になって、ソレーイッチ、ニィ、サン、と始めました。廊下を通った、他室の人が、「この部屋楽しそう♪誰か退院したら、私、この部屋に移してもらおう~」で大笑い。

 み~んなガン患者ですが、毎朝のテレビ体操のおかげで、明るく、楽しく過ごせた入院生活でした。正に“みんなの体操”です。

 ドクターには、「五段階の五の状態で、三年以内は大丈夫でしょうが、五年はどうかなあ…」と言われました。あれから八年。夫は「シブトク生きているねぇー」と言いますが、私は毎朝続けるテレビ体操のお蔭様と。今朝も張り切って、ソレー一、二、三です。

優秀賞 「無 題」(フォト・エッセイ)

桑江 桃子 様(沖縄県)

 睡眠欲がダントツ強い私。教員という職業柄、朝がいつも早い反動で夏休みは朝寝坊。クラスの子どもたちには、「早寝早起きですよ」といっているのにも関わらずだ。しかし、ここ二年間の夏休みは、そんな欲に負け知らず。そのきっかけがラジオ体操だった。

 去年の一学期最終日、子ども達にラジオ体操カードを配っていてふと、家の近所でもやっているのだろうかと疑問を持った。やっているとしたらあの公園だろう。行ってみるか。

 翌朝、二歳の娘と公園へ行ってみると、ビンゴ。小学生や大人たちが思い思いに過ごしていた。近くにいた人に挨拶をした。私の起き抜けの目、なんて腫れぼったいのだろう。スッピンを披露するのは苦手なのだが、公園にいるとそんなことは気にならなくなる。この空気感のおかげだろう。きっと、こんな機会がなければ、会話することすらなかったご近所さん。なんとなく嬉しくなった。

 ラジオ体操が始まった。今まで運動会でしかしたことがなかった。朝の清々しい空気に合う、体操のお姉さんの元気な声。なんて心地よいのだろう。これなら毎日参加したいと思った。娘はというものの、小学生のお姉さんにスタンプを押してもらい、その日からラジオ体操の虜になった。「ラジオ体操行くよ。」と声を掛ければガバッと起きて用を足し、ものの数十秒で草履を履いている。私に似て睡眠欲が強いはずなのだが。

 一年経ち、やはり私と娘はラジオ体操に参加していた。でもちょっとした変化があった。今年は夫も一緒なのだ。「楽しい?」と聞くと、「普通。」と気のない返事。知ってるのよ、あなたが娘とのラジオ体操楽しみにしてるの。

 ある日、家族で写真を撮ってもらった。相変わらず腫れぼったい目。スッピンはあまり好きじゃないけど、この写真はなぜか気に入っている。それは、ラジオ体操の清々しい空気が私たち家族を包んでくれているからかもしれない。

優秀賞 「ラジオ体操を楽しむ・第2の人生」

竹山 和廣 様(静岡県)

 定年1年前の平成22年初春、静岡県警察官を退職しました。ローカル線での旅に例えれば、終着駅手前の駅での下車となります。ひとり、風の吹くまま気の向くまま、軽くなった人生のリュックを背から肩に掛け変え、山間や海辺の風景と人情に触れる人生整理の旅をしたのです。これからは、「自分流に生きよう。」の強い気持ちがあったものの、「自分流とは?」自問自答を繰り返すも、答えは出せるものでも無く、退職後の月日の流れは、やるせない程の速さで過ぎ去って行きました。

 そんな中で、生活リズムが揃い始めたある日、早朝散歩途中、隣町のラジオ体操会場との出会いがあったのです。同会場において美しく体操をされる女性に目が留まって以来、ラジオ体操に『恋』をし夢中となり、現職時以上に勉強を始めたのです。

 以後約7年間、1級指導士認定取得、著書:隣町のラジオ体操・春夏秋冬:自費出版、自町内立ち上げ、FM放送出演、年8回程の講師、新聞報道の経験等にて成長をさせて頂いています。中でも浜北体操連盟所属、ぐるぐる公園体操会立ち上げ応援では、早朝4時起きでの往復35キロの3日間や、地元小学校や少数4人での講習会等は、とても心温まる良き思い出となっています。

 本官時代に培った経験に、更に体操に対する情熱等も加わり、すべてを生かすことができ、妻の理解と協力を得てのラジオ体操の普及諸活動に専念させて頂いております。68歳となる「今」、第2の人生がこんなにも充実し、楽しむことが、できていることへの喜びと感謝の気持でいっぱいなのです。今後も、権威主義者に陥ることも無く、優しさの中にも説得力を持ち合わせ、みなさんに好かれる指導者として、小さな花で咲き続けられたらと思っております。

優秀賞 「子ども達が作り上げたラジオ体操会」

森脇 英輝 様(千葉県)

 「先生、お手本やりたいです!」子どもたちの、この声を思い出す度に、私の中でラジオ体操指導が人生の軸の一つとなっていることを実感する。数年前、当時一年間勤務していた学校で十分間の朝のラジオ体操指導をしていた。管理職の先生からお願いされ、軽い気持ちで引き受けたものの、指導して間もないうちに、私がラジオ体操のお手本をやって、子どもたちがやるだけという単調なものになっていた。参加は任意だった為、参加する子どもたちも、面白くないと思ったのか段々と減っていく。そして、参加をしてくれている子どもたちの、どことなくつまらなさそうな顔。何か面白くする方法はないか…そこで思い浮かんだのが、子どもたちにラジオ体操のお手本をやってもらうことだった。駄目元で募集してみたところ、数人の子どもたちがやってみたいと志望したので、やらせてみた。すると、どうだろう。お手本をやった子どもたちの顔は緊張していたが、お手本をやり終わった後の子どもたちの声は皆一様に「楽しかった!」であった。そうか、先生が一方的に指導するのではなく、子どもたちに出来ることをやらせてあげれば楽しくなる、そう気付いた瞬間であった。この時から、子どもたちだけで自主的に動いて楽しいラジオ体操の会が出来るように色々と仕掛けを考えた。お手本だけでなく、道具の用意、初めの挨拶、終わりの挨拶。参加する子どもたちも少しずつ増えて、お手本をやりたいと志望する子どもたちも、瞬く間に増えていく。子どもたちの間で広がる遣り甲斐と確かな充実感。手ごたえは十分であった。そして一年を終わる頃には、学年を超えておよそ百人弱の子どもたちがお手本に参加してくれた。自分の力でやりたい気持ちを引き出す大切さを、子どもたちから学んだ一年間であった。最後に、この場をお借りして子どもたちに伝えたい。「あの時、ラジオ体操のお手本を沢山頑張ってくれて本当にありがとう。先生も楽しかったよ。一生の想い出です。」

佳作 「ラジオ体操の夏」

押切 久司 様(山形県)

あれは、今から50年以上も前の夏休み
近所にある神社の境内で僕たちがラジオ体操をしていた風景
夏休み期間中ほぼ毎日やっていた

夏なのに、朝の空気が涼やかであった
神社の境内に大きな杉の木が数多くあり
森のような独特の世界を作っていたからか

朝ごはんを食べる前なのに
ラジオ体操が終わってもすぐに家に帰ることはなかった
境内で友達と遊びまわった

どんなに眠くても、夏休みの間は行った
蝉の鳴き声、境内独特の匂い、友達との遊び
遠い昔の記憶である

ラジオ体操の音が聞こえると
体が動き記憶が甦る
これがラジオ体操の原本なのか

誰の心にもある
日本の文化、風物詩となっている
ラジオ体操を大切に繋いでいきたい

佳作 「私とラジオ体操」

川口 朋也 様(滋賀県)

 私とラジオ体操。37歳の私にとって、ラジオ体操の思い出のなかで印象的なのは、やはり、小学生の頃のものであろう。

 とにもかくにも、「面倒くさいもの」それが、小学生の頃にラジオ体操に持っていた印象である。子どもだった私にとって、ラジオ体操は、やっかいなものでしかなかった。

 学校に行くよりも早起きすることが嫌、みんなで揃ってラジオ体操をするのが嫌、極めつけは、ラジオ体操の後の健康づくりと称した1kmのランニングである。走ることが苦手であった私にとってはノックアウトパンチだ。私はラジオ体操が大嫌いだったのである。

 中学校に入学し思春期を迎え、ラジオ体操嫌いには、さらに拍車がかかった。というよりも、ラジオ体操そのものをしなくなった。ラジオ体操の記憶はほとんど残っていない。

 でも、これだけ嫌いだったラジオ体操なのに、不思議とラジオ体操の場に集まったときに感じた、どこか温かい、あの空気だけは今でも覚えている。朝、近所の人に出会ったときに交わす「おはよう」「今日は暑くなりそうやね。」「おばあちゃん、どうえ。」…。

 そんな、たわいも無い会話を交わしているうちに始まるラジオ体操の歌。第1体操で体がほぐれ、第2体操が終わる頃には、「あーぁ、嫌やけど、今日も走らなあかんな。」と心もちょっぴりほぐれてきていたのだな、と今でこそ思う。ラジオ体操には、心と体をやわらかくする不思議な魅力があるのだろう。

 今年の夏は、父親として可能な限り息子と地域のラジオ体操に参加した。うちの息子は「行きたくない。」と言うこともあるが、ラジオ体操の場で出会う地域の方と、「おはよう」と言葉を交わしている姿をみると、あらためてこう感じている。

 「ラジオ体操ってなかなかええもんやな。」

佳作 「ラジオ体操と私」

山口 規子 様(神奈川県)

 昭和二十一年、新ラジオ体操が制定された。

 その年、私は、青森県弘前市に生まれた。

 昭和二十八年の夏休み、小学校校庭でラジオ体操会が行われた。夏休みは、三十日間。北国の夏休みは短い。ラジオ体操会のカードを首から下げて、六時に家を出て近所の友だちと一緒に学校へ行く。カードに押してもらう判こが楽しみで毎日通った。終了日には鉛筆二本貰った。毎日通って力いっぱい体操してご褒美を貰ったという喜びだった。来年も毎日行こうと思った。

 テレビはまだなく、NHKのラジオ放送での体操。拡声器でラジオの音を大きくしていた。朝礼台には、男の先生が上がりお手本を見せてくれた。五年間、その姿と拡大されたラジオの音と共に体操した。「胸を反らす運動」では、両手を開げ空を見上げていた。

 ラジオ体操の歌、指導者の言葉かけ、弾むリズム、きびきびした動き。忘れられない。あの頃を思い出すとワクワク。力沸いてくる。

 大学入試でラジオ体操の実技試験があり、教官に褒められた。横浜で教員になり、市の小学校六年生の体育大会で全体準備運動として高い朝礼台に上がりラジオ体操を師範した。

 平成二十一年、定年退職後、ラジオ体操講習会を受け、指導者になった。その後、二級・一級指導士となった。区の地域や小学校、市や県内外でのラジオ体操会で指導している。

 県は、三〇三三運動。市は、ウォーキング。

 加えて、私の住む港南区では、全区民の健康寿命を延ばす為にラジオ体操を奨励している。区運動行事の準備運動は、動きと効果の説明後、みんなと元気にラジオ体操をしている。又、ある学校では、先生方と共にラジオ体操段階表を作り子どもたちが楽しく名人めざしてチャレンジできるように手伝っている。

 私の人生、ラジオ体操が出発点。今の健康、ラジオ体操のおかげ。笑顔で感謝感謝の毎日。

佳作 「父の遺言」

綿谷 晃一 様(大阪府)

 「ラジオ体操は健康に大変よいから、お前も是非参加しなさい」。

 私がまだ若い頃、父は会う度に言っていた。その頃まだ子供も小さく、仕事も忙しくってどうしても夜は遅くなり、朝は一分間でも長く寝ていたく、早起きして大阪城へ行くなんて、とても考えられなかった。

 あれから子供達も成長して、三番目の長男があと一年で卒業という頃に妻が発病した。腎不全、人工透析なんて、考えもしなかったし、知識も無かった。夫婦二人で頑張った二十五年にも及ぶ闘病生活、妻もよく頑張りましたが、二年余り前に遺ってしまった。暫くは思い出す度に涙があふれ、人間てこんなに涙が出るものか、と我ながら呆れる程だった。

 悲しくて寂しい毎日だったが、いつまでも沈んでいてもいけない。前を向いていかねばと思っていた頃、ラジオ体操に出会った。

 ラジオ体操なんて小学生の頃以来だったし、初めて大阪城公園で目にした体操は、私の記憶にある体操とは随分と違っていた。それでも大勢の人達が、朝早くから伸び伸びと楽しそうに体操している有様に、私も挑戦してみようか、との思いが沸いてきた。でも、いざやってみると思っていた以上にむずかしく、一寸気恥かしい思いもあった。とても私には無理と思った事もあった。でも、むずかしく考えず、自分に出来る事だけを伸び伸びとやればいい、と思うと気持も楽になり、一生懸命取り組んできた。

 最近、百五十回の参加を果たし、身体を思いきり動かす事が、こんなに楽しい事か、と分かってきた。この頃は毎朝お仏壇に手を合わせながら「かあさん、今日もがんばって体操してくるよ」と言って出かける。最近は体調もすこぶる好調だし、体操終えた後の散歩、大阪城一周も元気に続けている。ラジオ体操がこんなに楽しく、気持のよいものか、よく分かって来た。ラジオ体操がスタートして九十年とか、長い年月、日本中の人達に体操を広めてきた多くの人達に感謝の気持を忘れず、これからも残りの人生、そう長くはないと思うが楽しんでいきたいと思う。

 最近、ふっと思うのだが、若い頃、会う度に聞いたあの父の言葉は、父の遺言だったのか?あの悲しい時期に体操にめぐり会ったのも、父が導いてくれたのか?と思うと、五十年程前に別れた父が急に懐かしく思い出される日々だ。

 若き日に 父が語った 素晴らしき

 ラジオ体操 老いて楽しむ

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